私の実家が高田の隣ということもあって、自衛隊や災害対策車や緊急車輌の張り紙をした車が朝からたくさん。きのうご近所さんからお借りした軽トラにいっぱい荷物を積んで、「災害対策車専用」のガソリンスタンドに入って「高田に行きます」というと「満タンにしてってください」と言われ、それだけで涙がでるほど嬉しかったです!
陸前高田の様子はテレビでもご存知かと思いますが、街がほぼ壊滅状態。実際現地に入ると、頭ではわかっていても、私が知ってる高田ではなくなっていて、がれきの山と化して道路もどこを走っているんだかさっぱりわからなくなり、唖然とし、脳がストップしてしまいました・・・・・・。
ぱっと横を見るとたくさんの警察官ががれきの中から見つけだされたばかりのご遺体を運んでいるのが見えました。このがれきの下から最後に見つけ出される人はあと何年後なんだろう、、、と思ってしまいました。海岸から6キロも離れているところの気仙川の清流にかかる橋の高さ10メートルほどのところまで津波が来ていました。今思えば、すぐそばの大船渡線の鉄橋もありません・・・。ありえないところにありえないものがひっかかっています。
「これじゃダメだ、私何しにきたんだっけ?」と頭を切り替え、地図を見てもさっぱり見当のつかない避難所の場所を探しまわり、片づけをしていた方に「この辺に小さな避難所ありませんか」と尋ねると2箇所教えていただきました。どちらもまさに私たちが行きたいと思っていた、個人宅を避難所とされている場所でした。
Fさん宅はなんと32名。Tさん宅はなんとなんと74名!一般の民家ですよ。その数を聞いただけで家主さん家族の懐の大きさを感じました。昼間は行方不明の家族や親戚を探したり、安置所に確認に行く人が多く、家に残っている人はわずかでした。物資はやはり大きな避難所のようには回っては来ず、後回しにされたり配給も飛ばされたりすることもあるそうで、残っている食材を持ち寄ったり遠くにいる親戚に届けてもらったりしているそうですが、人数が人数なので野菜も調味料も食糧はあればあっただけ助かると言っていました。Fさん宅は数日前にガスだけ復旧。電気と水はまだです。Tさん宅は電気とガスが復旧。きのう2週間ぶりに特設会場のお風呂に行って入ったそう。
恩師M先生が1週間ほど前にサンビレッジ高田という体育館の避難所にいると電話で話していたので訪ねていくと、高田高校の本部は変わったので今はいないと聞き残念。ここは120名ほどが避難していて、家にいるけど物資をもらいにくる人が70名くらいいるそう。この辺の拠点にもなっているとのことで、こどもからおとしよりまでの古着もたくさん受け取ってもらいました。食糧も配給はくるそうですが、ここの人数には到底足りない量の野菜でもお渡ししたらとっても喜んでいただきました。高田高校生の安否確認のために一人だけ残っていた先生に金ヶ崎から来たことを告げるとなんと彼女は金ヶ崎出身とのことでなんだか二人でうれしくなり、これから集めてほしいものも言ってもらいました。仮設住宅がそろそろできるけれども、抽選で家が当たっても包丁も鍋も何も無い、みなさんそんな不安でいっぱいなんです。少しでも前に気持ちを持って行くには調理器具などは中古でもいいから生活用品がある程度あると違うと思う、と。
次に向かったのはM先生宅。何度もお邪魔したことがあるので場所を記憶はしていたはずが、やっぱり見当がつかないのです。たどり着くまでに5人に聞いて行くことができました。先生の奥さんと再会をよろこびましたが、当の先生はやり場のない思いをどこにぶつけたらいいのか精神的に限界にきていたそうで、きのう盛岡の娘さんのところに行っておいでと奥さんが送り出したそうです。家は海に近いわりに高台にあったために紙一重で無事でした。道路を挟んで下の集落は2階まで浸かっているところもありました。家も残り、家族もみな無事。だけど、家と家族が残っても手放しで喜べない現実、教え子を何人も失い、母校でもある高田高校も壊滅、大事な書類や仕事道具も失ったことで自分を責めて、とても苦しんでいると奥さんがお話してくれました。
ここの近所の人たちも最初の頃はがんばって励ましあっていたけれど、このごろはみんな心が疲れ果ててやり場の無い思いをぶつけたくてもどこにぶつけたらいいかわからなくていらいらしているとも。それはきっとみんな本当にそうなのだろうと思いました。船も流され漁もできない、田畑もがれきに埋もれ、家も失い、家族もいなくなったとしたら・・・。もし自分だけが生き残ってしまったとしたら・・・と考えると私は生きていこうと思えるだろうか・・・。そして貧乏暮らしの今でさえ、まだたくさん「ある」ことに気づきました。
お話を聞くことしかできなかったけれど、先生の奥さんに金ヶ崎で作ってきたお煮しめを夜に食べてもらって、すこしの時間でもほっとしてもらえたらなあと思いました。「今度来るときは3日くらい泊まりながら来て」と。やっぱり誰かに胸に閉じ込めてしまった思いを聞いてもらいたいのだと思います。
私が大学生だったころ、実家の母が自宅でベビーシッターをしていて、近所の双子ちゃんを預かっていたときがありました。一家はその後高田に家を建てて引越し、双子ちゃんたちはこの春高校を卒業して千葉大と東北大にそれぞれ推薦入学が決まっていたそう。でも、お母さんと双子ちゃん、亡くなられたそうです・・・。母にひとりは見つかったと聞いていましたが、ふたりとも見つかったと今日聞きました。見つかったけど、姿かたちでは本人と確認できないくらいの状態だったようでDNA鑑定してわかったそうです・・・。M先生も「優秀なやつが選ばれたんだな・・・」と悲しんでいたと奥さんから聞きました。残されたお父さんはまた大東に戻ってうちの実家の隣のアパートで暮らすことにしたと。残された双子ちゃんのお姉ちゃんとお父さん、どんなにつらいだろうと思います。
先生のうちの近くの小学校に案内され、そこでもこどもからおとなまでの衣類と手作りのおやつを渡すことができ、軽トラはここで空になりました。170人ほどいるここの避難所は親戚宅に一度避難したけど居心地の悪くなった人などが入り日に日に増えているそう。ここでは、新一年生のランドセルと、文房具やノートピアニカがたくさんほしいと要望を聞くことができました。あと乳児から大人までの靴も。
それからどこも共通していたのは毎日新鮮な魚介を食べていた沿岸なだけに、「魚を食べたい」と。うーん、それは正直難しいな・・・と思いつつ、農村に住む私たちが野菜を切らすのと同じような感覚なのだろうな・・・と想像しました。
大東に着いて実家戻る前に、情報交換。私が高田に一番近いのは大東町なんだから動いて!と発破かけたせいで地元で動き始めてくれたボランティア隊と馴染みの写真屋さんで情報交換。中学生のときから写真小僧で今は政治家目指す、今時珍しい純朴な大学生Sくんは数日前に物資を集めたり届けたりもしていて、今日は地元の議員と高田を回って要望を聞いてきたそう。お風呂に入りたいという声が多かったと。私の友達で香川出身の子のお知り合いが香川から手製の五右衛門風呂をトラックに積んでこちらに来たいと言っていますが、水は内陸から積めるにしても排水のこと、人数制限などちょっと難しい問題があってクリアできればいいなあと思っています。こちらからはランドセルなど新入学、新学期用品を急いで集めようと声をかけました
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こどもたちを親に引き渡して最後に命からがら逃げて助かったその親友に明日金ヶ崎の子育て支援センターに寄ってもらって大人用の古着を託します。山田に届けてもらうのは明日で3度目です。
山田は町の8割が行方不明と先日ニュースで報じられました。これを聞いたとき改めてぞっとし、亡くなられた方には申し訳ありませんが親友がそのうちの2割に入ってよかったーと心底思いました。彼女は今は内陸の実家にこどもとともに戻っていますが、動いていないと泣いてしまうから、と言ってがんばっているのです。高田の民家に74人とか32人で身を寄せ合っていた方たちも、それぞれの思いを共有しながら
心も寄せ合ってなんとかなんとか元気をだして前に進もうとしているのだなあと思います。
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〇雑感
毎日全国のみなさんから(果ては海外からも)真心込められた物資とカンパが届いてうれしい悲鳴をあげてます!(近所の方が目をまんまるくしています!)
今日は物資のひとつに兵庫県からお野菜を送って下さった方がありました。
予定を早めて近いうちに届けに行きたいと思います。
ありがとうございます。
前回は軽トラで行きましたが、おじから2t車を借りられることになりました。一度に倍以上を運べます。
おひとりおひとりに御礼をしたいところですが、直接存じ上げない方もたくさんいらして、なかなか難しく感じております。
この場をお借りして御礼を申し上げます。
このブログ上の日記を転載してくださった方にも心から感謝しています。
そして協力してくださる皆さん同じことをおっしゃいます。
「何かしたくてうずうずしていた」
「何かしたくてもなんにもできないと思っていたところを
直接支援する機会を作っていただいてうれしい」
「本当に必要とされる場所(小さな避難所や個人宅)に届けてもらってありがとう」と。
こちらこそ感謝でいっぱいなのに、感謝されるとは・・・!
親友をサポートしたい、大好きな人たち、大好きな海、街を取り戻したい、私は元気だ、なんとかしなくちゃ!!
そう思うと同時に勝手にからだが動いてました。
小さいこどもがいるから思うようには動けませんが、それでもその思いだけで動いている意味はあります。
被災者のみなさんの喜ぶ顔がみたいです。
行く度ごとに笑顔がふえていくのを楽しみにしながら。
もう少し落ち着いたら物資を届けながら避難所の子供たちと遊んだり、おばあちゃんたちとお話したり、そんなことも支援活動のひとつとしてしていきたいです。
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〇4月4日・その1
KOTKAさんからのメール
津波から九死に一生を得て助かったものの、家族の中でただ一人取り残されて、家のみが残り避難所にも行けず孤立した上に食料が届かず、思い余って自殺に追い込まれる人々がいるらしいです。(特に日頃近所付き合いがない方…)
支援物資を届ける際に、〇○さん宅に支援物資を届けました!と集落に情報を周知する方法があればそういった方々が救われるのではないかとのことでした。
どうぞご参考までに
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4月4日(月)『スマイル救援物資』高田・矢作地区
マイミク雫さんがナイスなタイミングで笑顔の大切さを思い出させてくれました。
震災後初めて高田に行った1週間前は笑顔をすっかり忘れていた。いやいや今は内陸にいても笑顔を忘れがちな毎日・・・。
全国各地からみなさんが送ってくださった物資と一緒に笑顔も運ばなくっちゃ。
それを忘れないよう、『スマイル救援物資』と紙に書いてフロントガラスに貼り、いざ出発。
ひとつ心配だったのは叔父から借りた2t車。冬の間農作業がないので車も使われておらずバッテリーがあがりやすいとのこと。出発前にも上がってしまいこれはまずいなあと。
みなさんから届いた食糧、衣類、靴、日用品、衛生用品、文房具、絵本などと子育て支援センターに集まったもの、いただいたカンパで朝一番の産直野菜を大東でたくさん買い込んで向かいました。野菜を食べたいと先週多くの方から聞いていたからです。
陸前高田市内の80箇所近くある(現実には100くらいだと思う)避難所のうち、今日回ったのは11箇所でそのうち物資を届けたのは9箇所。それぞれ10人〜150人くらいの小中規模の避難所と個人宅を回りました。
先週同様、物資が行き届いていなさそうな避難所をとにかく車で回りながら人に聞いたりして探し回ります。
最初に矢作地区のとある公民館へ。そこではおばちゃんたちが喜んで出迎えてくれました。「ええっ?野菜!!!」と歓声を上げて涙して喜ばれ動揺してしまいました。現場はそれほど切実なのでした。ここには大人だけ35名が避難していて、もともと矢作地区の方ではなくてほぼ壊滅してしまった気仙地区の方が移り住んでおられるとのこと。野菜はきのう2週間ぶりに本部からの物資として入ってきたけど35名分の食糧としては全然足りないと。「ごはんとお味噌汁と漬物だけ食べられたらいいの。みんなに食べさせなきゃと思うから味噌汁に入れる野菜やふやかして食べられるものがあればいい。贅沢言わない」とおっしゃいます。すかさず兵庫のUさんから送られてきた野菜と買ってきた食糧を渡すと「本当にありがとう」と何度も何度も頭を下げられました。「みんなが応援しています、みんなで元気にならなきゃだめなんです。またかならず来ますね」と握手して別れました。
この地区の拠点となっている比較的大きな避難所へ行くと日清のチキンラーメン屋台がお昼の準備をしていました。ここではさっきの公民館のように自分たちで炊き出しすることはなく、最近の朝晩はお弁当、お昼はパンとかラーメンのよう。子供たちもいたのでこれが長期間だと身体が心配です。せめてご飯と味噌汁を一日一回は食べさせてほしい。いや、そういう炊き出しの支援をすることが必要だなと感じました。
役所の方がいたので物資の分配についてたずねると、避難所の人数に合わせて物を運ぶことまでまだ行政も仕分けする人も手が回らないとのこと。35人の避難所も10人の避難所も同じ量だから過不足がでるのは当然。食糧は多くて困るまでにはなっていないけれど、だいたい間に合っていると感じている避難所と、全然足りないところと差が歴然としています。
また、市民みんな被災者であるのに、本部からみると避難所にいる人が被災者で、家が残っている人はそうじゃないと見られるとも。だから悲しいことが起こるのに・・・この構造はどうしたらいいのでしょう。家が残っていたとしても家族を失い、ライフラインは絶たれ、車も流された人だっているでしょうし、ガソリンもなかったときは買い物にも行けなかったはず。その部分で市民と行政のつなぎ役や穴埋めをnpoが機能してやれていたら・・・。
ここでは子供たちに直接お絵かきセットを。「ここで生活している子も遊びに来る子もみんな仲良く使ってね」と言って渡しました。津波の被害はこの300m手前まででここには及んでおらず隣の幼稚園の遊び場が残っているので子供たちの元気に遊ぶ姿をみて少しほっとしました。
帰ろうとしたとき、やっぱりバッテリーがあがってしまいました!電源をもらって復旧している間におにぎりを食べて休憩。いやはや、、救援にきたのに助けてもらいました。その後は車を止めてもエンジン切れませんでした。
続く
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4月4日『スマイル救援物資〜高田・長部地区・小友地区〜』
壊滅状態の気仙地区を通り過ぎて気になっていた長部地区へ。
瓦礫を重機で除去している作業を道路沿いで一輪車に腰掛けて見守っているおばあちゃんの姿がありました。
避難所の小さな看板をみつけたので入ってみました。おじさんたちが数人出てきていろいろお話してくださいました。「食糧は野菜があったらうれしいけど、この地区の本部に近いこともあって自衛隊がよく運んでくれるのでだいたい物資は間に合っているよ」という言葉のとおり少し余裕が感じられました。「もっと困っているところあるはずだからそっちに回してあげて」と。
地域のコミュニティがちゃんと機能していて、ここに食事だけ摂りにきたり、近くの本部から自治会長経由で物資が各家に運ばれていたりするそう。海に生きる人たちの地域の絆の強さを感じました。
もちろん心の傷はこれから表出されてくると思いますが、生きるために必要なものが満たされてきて、ここでは次の段階に入っています。「漁場を失い会社を失いほとんどの人が働けなくなった。仮設住宅の入居の合否の不安、入っても2年の期限付き、瓦礫の撤去など復興に係わる仕事を都会の人たちじゃなく、市民を雇用してほしい」と。いつまでも救援に甘えてられない、自立したいという思いがひしひしと伝わってきました。本当にそれが町の復興と自立の一番の近道だと思うのでこれは早く国にやってもらいたいです。片付けながら気も紛れるし、一歩一歩復興の足跡が残せるという充実感が希望につながるはずです。
次に孤立が気になっていた広田地区へ向かいましたが途中小友地区を通過中、バックミラー越しに手をあげ追いかけてくるおじちゃん発見。「救援物資お願いします」と近くの公民館に案内されました。行くとそこでは話し合い中の住民のみなさん100名ほどがおられました。ここは家も残っていて、ライフラインも復旧したのでそれぞれの家で生活し、洗濯もできるようになったそう。物資が公民館に届けられ、それを各自で取りにきているとのことです。家も残っているので衣類などは大丈夫なのでは、と思いましたが、欲しいという老人用の紙おむつ、女性用肌着、男性用靴下、肌着、衣類をお渡ししました。家が残っているから、全壊した親戚などが避難しているのかもしれません。食糧は自衛隊が届けてくれているので間に合っているそうです。
続く
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『スマイル救援物資〜高田・広田地区・米崎地区〜』
恩師のM先生の自宅に和歌山のYちゃんから届いたばかりのデコポンを置いて、次は広田地区へ。大阪の友達Kちゃんのお連れ合いMさんが取材で高田に入っているので、滞在中に会いたいねということになって広田の避難所になっているお寺さんで待ち合わせして無事合流。ここには子供も含めて50名ほどが避難しており、外ではおじちゃんたちが火を焚き暖をとっていました。そうそう、この日はまた寒さが戻って雪が舞っていたのでした。おじちゃんたちは口をそろえて「野菜食べたいなあ」と言います。「ガソリンもほしいと。飲むガソリンじゃないよ」などと冗談も言える元気が出てきた様子。でもガソリンの無料配給はまた市内で始まるそうなので大丈夫だと思います。
台所のおばちゃんたちに野菜事情を聞くと、「最近はだいぶ入ってくるようになったよ」と言うので、「おじちゃんたちが野菜食べたいって言ってますよ」というと、「あらまあ、男たちの方が敏感になっているんだね。確かにお昼はカップラーメンだったもんね」と。足りて困ることはないと、野菜をたくさんお渡ししました。
子供から大人までの衣類や靴、文房具、ぬいぐるみなどもMさん始めみなさんに手伝ってもらいながらたくさんお渡ししました。お寺さんなので、ここにいる人だけじゃなく衣類など欲しい人が来てもらっていってほしいなと思います。
MさんとKちゃんの近況含め、情報交換。「震災孤児のケアがまったくされていない」と言われ、私もはっとしました。被災者のみなさんも気にはしているけれど、自分や家族のことでいっぱい、行政も同じ、NPOの私たちが考えなければいけないんじゃないか・・・。私自身、まずは物資と思っていたのでそこまで思いが至らなかったのです。明日奥州、金ヶ崎地区のNPOの集まりがあるので話し合ってみることに。
広田湾はこじんまりとした町で、とってもきれいなところでした。海もきれいで何度も何度も遊びに来たところ。きっと、岩手の県南の人は一度は行ったことがあるんじゃないかな。海の色は嘘みたいにきれいに戻っているように見えます。いつの日か、また子供を連れて遊びに来たいです。
次は先日も訪れた米崎地区の小学校。先週よりも20名少なくなって、150人が避難されていました。ここのリーダーSさんのまじめで温和で一所懸命な姿に心が打たれます。きっと消防団の半被を着ているのでそうなのでしょう。Sさん曰く、「警察から県内の避難所でここが一番体制がしっかりしている」とお墨付きとのこと。それは大げさではなく、見て感じ取れます。多くの消防団が亡くなった中で地域の任務を果たさなければ、という思いがひしと伝わってきます。
ランドセルを集めてほしいという要望も先週Sさんから受けました。こちらで集められる分はSさんを通じて高田の小学生に届けたいのですが、教育委員会もあまり機能しておらず話しが進まない状況。でも、学校が始まってランドセルがない一年生が多くて市が慌てないように、こちらで準備できるものはしてあげたいのです。「手が回らない、だから必要ない、でも準備もしていない」ではなく、せめて助けてほしいことをどんどん言ってほしいです。行政と市民が分断されていること、 NPOが機能していないことが内陸側からの援助の手も阻むことになっています。なので、私たちみたいな個人レベルで現地に行かないと現状では何が必要か、把握できなくなっています。
物資もここではSさんの考えでちゃんと保管する場所も確保しているので、「多くて困ることはない、すべていただきます」と受け取ってもらいました。小さな公民館などの避難所だと、確かに服は欲しいけど置く場所がなくて困っているのです。そういう場所では冬物を一度回収したりすることも考えないといけないかもしれません。でも、この小学校みたいに保管場所が確保できれば、仮設住宅に入るときに必要なものをいつでも取りにきたりできます。衣類の他、食糧、靴、文房具、絵本、なんでも安心して預けることができました。近くにいたおじちゃん、おじいちゃんたちも荷運びを手伝ってくれました。
校庭には自衛隊の用意した仮設のお風呂があります。これから仮設住宅も造られるそうですが、子供たちの遊び場が失われるのを心配して近所の地主さんが仮設のための土地を提供してくれることになり、少しは校庭として残せそうだとのこと。
これから学校が始まると子供たちの心の傷も浮き彫りになってくるんじゃないかと心配されていました。やはり震災孤児へのケアを考えると心に重くのしかかります。
続く
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スマイル救援物資〜その4・高田・高田地区〜
すでに夕方5時すぎです。残すところはあと2箇所、先週たまたま近くで作業していた方から聞いて知った個人宅避難所のFさんと地域の物資の拠点となっているTさん宅。人数も把握していたのであらかじめこの2箇所分の物資は金ヶ崎でFさん宅、Tさん宅と書いておきました。晩御飯の支度で忙しいころにおじゃましたのに、もう何度も会って気心がしれているかのような満面の笑みで迎えてくださいました。「いつになったら恩返しできるかな〜、待っててね。」とTさん。Fさんは「先週よりだいぶみんな元気になってきたと思わない?」と。おふたりの笑顔に力が出てきて、私もまたパワーをもらいました。どちらも個人レベルでの物資調達でなんとか人数分の食糧が間に合っている状態です。Tさん宅は13世帯に分配しなきゃならないのに、あるときは白菜1/4だったと。1/4個の白菜をどうやって13世帯に分けたらいいのでしょう・・。それも来たり来なかったり。「また来ます」と約束して、帰りました。
M先生の奥さんが高田第一中で高齢者介助のボランティアをはじめていて、私が来たら寄る様にとのことで第一中へ。ここは市内で一番大きな避難所でまだ千人を超える方がいるらしい。物資的には一番最初に届くところなので問題ないだろうから、こういうところは寄らないで置こうと思っていた場所でしたが。
教室ごとに区切られていて、お年寄りのお部屋はお部屋であって、私が行ったときは夕食前で派遣されてきている女性の精神科の先生が丁度フルートを演奏しに入ってこられました。
おじいちゃんおばあちゃんたちは「なんで助けた。そのままにしてくれればよかったのに」と言う方が多いそう。ご自分の娘息子、孫たちを失ったのに、自分たちが生き残ったことに負い目を感じているのだと思います。リクエストに応えて吹くフルートの音色が心に染み渡ってきました。
「音楽のちからが必要、もうちょっと落ち着いてきたら歌いにきて」と。奥さんはそれを私に伝えたかったようでした。それは私自身考えていたこと、でも、まだ今やるべきことがある気がしています。落ち着いてきたらママたち子供たちと何か作って遊んだり、歌をうたったりしたいと思っていますし、何かやりたいと思っているアーティストやグループのつなぎ役にもなりたいと思っています。
そして最後の最後に一番最初に訪ねた矢作の公民館に残った野菜をあずけました。「なんか今日はみんなの笑顔が増えてきてね〜。あなたたちのおかげよ。ありがとう。みなさんによろしく」と言っていただきました。みんなが応援しているきもち、伝わって本当によかった。それを感じられたので、心身ともに充実感でいっぱいで夜もぐっすり眠れました。
先週は戦後の焼け野原状態になった高田の風景が目に焼きついて、2日間眠れませんでしたが、強くなったものです。いつまで続くか続けられるかわかりませんが、また2t車借りて来週も行こうと思います。今度も食糧たくさん持って、ランドセル、文房具なども積んで行きます。
それから私のことを直接知らないみなさんに心配されます。決して過信はしていませんが、我ながらタフに動き回れる心身は元来持って生まれたものに加え、子供のころからソフトボールなどで鍛えられたものであります。一応国体メンバーでした。私の恩師M先生は岩手全体のソフトボールを強くしてきた方で現在岩手と東北の高体連のトップに就いています。「おまえは強すぎる(多分女としてという意味・笑)」と言われますが、並外れた心身を育ててくれたM先生にも責任はあるのです(笑)
以上、とっても長くなりましたが4月4日(月)のレポートでした。
みなさんから送っていただいた真心こめられた物資とカンパのおかげで、今支援の手を必要とされているところに必要なものを届けられました。本当にありがとうございました!
もし、これをお読みになった方で陸前高田の支援に対するアドバイスなど下さる方がいらっしゃいましたらぜひともお待ちしています。今、地域のNPOでも情報を集めています。よろしくおねがいします。
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写真左から
1。東京下町でカフェ「ロケッティーダ」をやっている友人ミントンさんと陶芸家のミホコさんから物資と一緒に届けられた人生の先輩へ、愛のこめられたメッセージ。感動しました!ありがとう!!
2。こちらで買ったもの、みなさんから届いた食糧をドッキングして詰めています。個人宅向け、小規模避難所向け、中規模向けなど、ニーズに合わせて箱を作るようにしています。
3。きのう夕方帰宅後の猫の部屋(現在物資を保管、仕分けしている部屋のひとつ)。扉を開けたら入れませんでした。実は母屋にも仕分けの部屋があるのです。広い家でよかった。
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〇今、思うこと(原文より抜粋)岩手生まれの私。子供の頃から感じてきた疎外感といったらいいのか、、
県外出身者が田舎に来て感じる岩手の人の反応のなさ、鈍さ、当事者意識のなさ、問題意識の薄さ。(これは移住されていた方には簡単にわかると思います)高校卒業と同時に上京し、いろいろな人々の考えや活動に触れ、私は自分が間違っていなかったと、ほっとしたものでした。
今、岩手の人たちに沿岸と内陸では天と地の差があることを自分の目で確かめて本気で考えて動いてほしい。
「岩手は嫌だ」と思って外に出たけど、岩手のいいところも全然知らないまま上京したので、もう一度それを確かめたくて帰ってきた。
帰ってきたら、自分も変化しているけど、岩手にも県外から素敵な人がたくさん入ってきていて、その人たちが素敵な岩手、私が今「好き」と思える岩手をひっぱっていた。
県民性というのか、なんなのか。
この場に及んで、すごく岩手の中でも温度差を感じています。
もちろん、個人レベルで動いている方はほかにもいます。岩手は広いので動いている人が点在しているように見えるだけかもしれません。
沿岸と内陸の連絡がとりにくく連携ができないので、個人で動く方が今は早いです。
でも、マンパワーがまだまだ足りません。
現地に行って、話を聞いてあげるだけでも違います。
これも県民性によるのかもしれませんが、沿岸のみなさんもボランティアに入ってくる方が県内の方だと心も開きやすいと聞きます。県外のボランティアでも長く滞在できれば時間をかけて心を開けると思いますが、お風呂に入れないなどの理由で長くても3日で入れ替わることが多いそうです。
沿岸の人たちは逆に言えば、今身に染みて感じているかもしれない。
手を差し伸べられる側にたったときに動ける力を、今もらっているとも言えます。
岩手の内陸のみなさん、声をかけあって動き出しましょう!
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4月12日・スマイル救援物資高田・その1
今回の報告はパソコンの故障で遅れたこともあり、ざっと書くことにします。
まず行ったところから順に。
1、矢作第6区公民館
前回も行って食糧不足が深刻だと知り、今回もたくさんお届けしました。
皆さんから届いた乾物類、調味料、お菓子、産直で買った青物野菜たくさん、それに衣類。高齢者が多く、おばあちゃんたち用の古着を2箱開けると「わ〜かわいいごど!」と歓声。避難者が入れ替わっていて、バスタオルなどまだ持っていない方がいたので今度お届けします。納豆、豆腐も食べたいとのこと。そりゃそうだー、私だってそうだもの。みなさんマスクしてますが、マスクの中ですんごくうれしそうに笑っているんですよ!ここに来ると、この中に自分のばあちゃんがいるような気がして、なんだか笑顔を見るたびほっとしたりもします。持っているのはロケッティーダのおふたりからの「人生の先輩たちへ」のメッセージ。ほかのみなさんからのお手紙もコピーして回った全部の避難所に届けています。
2、下矢作小学校
小高い丘にあって自衛隊のテントが見えたのでてっきり避難所かと思ったら違いました。自衛隊員の野営テント用だと思います。
でも、職員室にお邪魔し学用品を持っていることを先生に伝えると、転校生でひとり必要な子がいて、なんと今見学に来ていると!
そしてお父さんお母さんと玄関先に来てくれた女の子は先週避難所となっている矢作のコミュ二ティセンターで出会ってお絵かきセットを渡したSちゃんでした!思わぬ再会にうれしくって、感激しました。Sちゃんの通っていた高田小学校は水につかり、校舎の2階か3階で授業は再開するそうですが、生徒の半数は疎開したり転校を決めたそうです。Sちゃんもそのひとり。ランドセルやピアニカはお父さんが瓦礫の中から見つけ出し、泥をぬぐったそう。でも、鉛筆など学用品はこの矢作小学校自体は被害がなく、市側から物資として入ってこないと言われ、どうしようというときに出会うことができました。たくさんの文房具のなかからそれぞれお気に入りを選んでもらって、お絵かきが大好きなSちゃん、色鉛筆ももらうことができてにっこりです。あーーー、よかったーーー。ここに来てよかったと思いました。
Sちゃんとご家族には今後もできるかぎり支援を続けていくことに決めました。さっそくご家族分の衣類や追加で学用品も送らせていただきます。
3、道端でわかめを拾ってくださった方
今回の物資の中でひときわ喜んでもらえたのが隠岐ノ島でわかめを養殖している雫さんから届いたわかめでした。「乾わかめ?」「隠岐ノ島から!?」
ととってもうれしそうでした。
この日は晴れていることをいいことに2T車のトラックにブルーシートをかけずに走っていました。多分、荷物の上に乗せていたんだと思います。軽いのですから間に挟むとかすればよかったのですが、プップーという後車の合図で止まり言われて気づきました。なんと風で飛ばされて道路上に落として
しまったのです。すぐに戻ると、おばちゃんたちが拾ってくれたあとでした。ひとつひとつに届ける場所を書いていたのでおばちゃんたちもこれは物資なのだと気づいてくれて、箱に集めてくださってました。雫さん大事なわかめを落としてしまい本当にすみません。
お礼に個人にあげようと思っていた宛名の無いわかめをお渡ししました。聞けばちょうど買出しに行こうと思っていたそうです。家を流された親戚が一人暮らし家庭に15人避難してきて、食糧不足になってしまい仕方なく数名ほかに移動したそうです。車が一台残っているからこれだけが財産、でも避難先に世話になってばかりで申し訳ないと。わかめと一緒にほかの食糧もお渡し抱き合ってわかれました。「わたしも誰かのために役に立てるようになりたいです」と。いえいえ違います、多分いままでいっぱい人のために働いてきた方々だと思います。今は私たちが恩返しする番です。
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スマイル救援物資0412高田その2
4、横田小学校
Kさんという女性が物資を大人用の衣類をほしがっていると聞き、横田小で待ち合わせ。ここも津波から免れて、一見平和が保たれてみえる地域。
Kさんは職場が職場が高田で住まいが程近い宮城の本吉町。私の大好きな大谷海岸のあるところです。今もろうそく生活を送っていて、1歳7ヶ月のお子さんが先日40℃の熱を出したときは氷をつくることができず、冷えピタでなんとか乗り切ったそうです。ただでさえ疲れがたまっているのによくお母さんもお子さんもがんばったと思います。衣類のほかに単1電池がほしいとのことでしたが手元にも店にも無く、残念。今、高田で間に合ったから不要といわれたランドセルの行き場を探していて、Kさんに気仙沼方面の情報を聞くと小さな離島、大島で10名分くらい必要とのこと。Kさんを通じて大島の子供たちに届けられるかもしれません!
5、サンビレッジ
寄るか寄らないか迷った末に駐車場に車を止めるとなんととなりに花巻のフェアトレードアンドエコロジーのお店「おいものせなか」のBちゃん夫妻と高田高校のI先生!Bちゃんともこの忙しいさなかで久々の再会でしたがI先生とBちゃん夫妻は20年来のお友達ということで、個人的にI先生に会いに来たとのこと。Bちゃんたちと野菜を届けながらちょっとだけなかにお邪魔しました。ここは屋内スポーツ施設になっていて2週間前はなかった大きなテントが世帯ごとに建てられていて一応プライバシーは守られるようになっていました。子供たちは子供同士で遊んでいる様子が見えました。何か読み物必要じゃないですか?と聞くと夕食の支度をしているおばちゃんたちに主婦向けの雑誌が読みたいと要望がありました。
BちゃんたちとI先生にほかの避難所へ案内してほしい、ということで近くの徳山さんちへ。
6徳山さん宅
徳山さん宅は避難所ではありませんが、14世帯の物資の仕分けや行政からの情報を取りまとめて連絡する役割を自ら担っている方です。ご自身がここの生まれではなく、ほかの方々が家族や親戚の安否確認に出かけて日中留守にすることが多いので、みなさんの留守を預かっています。
電気とガスは復旧していますので、あとは水。それと固定電話。ライフラインがすべて復旧するまでは避難者とみなされます。行政からの少ない配給を各家庭の人数分で割り、食糧を分けます。毎日届く情報の整理も家の窓ガラスを掲示板にしているので朝でも暗くなってしまったと笑います。いそがしくて家を開けられなくなったそう。
県の小学生のバレーボールのコーチやまとめ役もされており、私の恩師M先生の娘Sちゃんも教え子とのこと。またまたつながりました。出会うべくして出会うのですね〜。神様はお空の上から指先で私たちが行くところを指図しているにちがいありません。
徳山さんのような人がいる地域は頼もしい限りです。そのご苦労に頭が下がります。
7、福田さん宅
写真3枚目のお父さんの顔に見覚えある方いませんか?
私はこの日ご本人から聞くまで知らなかったのですが、「みのもんたにも訴えたよ」と。番組で取り上げられて以来、テレビで5回も取材を受けて一躍時の人となったこの方が福田さんのご主人です。そんなに映ったのなら誰か見ていていてもおかしくなさそうです。近所の方や親戚34人が一家に住んでいます。自分たちでやってやろう!という気持ちで泥だし、片付け、露天風呂造り、炊き出しなどやってます。気仙大工の棟梁で、浜っ子気質な面も。お会いするたび私たちにもねぎらいの言葉をかけてくれます。おまけに共同通信の真下記者が全国に配信したおかげで「千葉からねぎ持ってきた人があった」「山形から来てくれた人がいた」と嬉し顔。全国の方から送られる物資で笑顔で乗り切っています。ここに来ると私まで帰ってきたような気持ちになります。福田さん宅はマスコミの効果によって光を当てられた一例だと思います。
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スマイル救援物資0412高田その3
8、米崎小学校
ランドセルの要望があった米崎小。避難所の体育館に入ると私の目の前で女性が倒れました。物資どころではなく、そのおばちゃんの介抱をして背中をさすっていると早口に自分の思いや不安を話し始めました。自身の母(おそらく80才〜)が夜中になんどもトイレに起きるのでそのたびに起きたり、眠れなかったり、ふだんは130の血圧が今は220もあると言います。母に心配かけると行けないからこんなところで倒れてはいけない、としきりに言います。寒い体育館、冷たい床、プライバシーのない環境、続く余震、不安、介護疲れ、食事の内容の悪化、すべてが彼女を襲っているように感じました。私はたまたま目にしましたが、おそらく彼女は毎日こういう状態なのではないだろうか、誰かそばについて話を聞いてくれる人はいないだろうか、と思いました。
受付で倒れたおばちゃんを邪魔者扱いした若い男性が背後で私たちの物資を運んでいる姿を見て少し腹が立ちました。
9、新田地区災害対策本部
日が暮れかかったころ道路沿いで茶碗洗いをしている数人のおばちゃんの姿。ここは31人の避難者で炊き出しをしているとのこと。ほかに家が残っている方が物資を取りに来る地域の拠点にもなっていました。まだ今日の配給を取りに来ていない家の配給の中身をみせてもらうと、やっぱり菓子パンとカップラーメンです。でも、米はたくさんもらっているようです。インスタント食品は急場しのぎには助かったかもしれませんが、長期化する避難生活者の健康状態が心配です。野菜や乾物類を少しずつでも摂ってもらって健康を保ってほしいです。「ほしいと言ったらきりが無くなるから言わないようにしている」と言われても、やはり助かった命、これから復興のために生きていくための健康が大事だと痛切に思うのです。
10、慈恩寺
最後は火を囲み、暗くなっても少しの酒の肴で談笑している海の男たちが集うお寺。「あー、また来てくれたの!」と歓迎されました。子供たちもいるのでぬいぐるみはどうかと尋ねると本心か気を遣ってか「俺さびしいから抱いて寝ようかな〜」と言って選んで何個かもらってくれました。前回靴や衣類、お絵かきセット、食糧をお渡ししたので今回は食糧をお渡ししましたが、お寺さんということもあってか食糧もだいぶ間に合っている様子。今度は男性用のジャージや春物衣類はほしいと要望があったので、お届けしたいと思います。缶コーヒーや(ぱちぱち・・・と言われてわからなかった)炭酸飲料もほしいと言われましたが、1回は買って行けても嗜好品を毎回届けるのは違うなと感じています。そこは心に線を引いておきたい部分です。
笑顔をたくさんみられるようになった反面、心をあの日に、海に、取り残されたままになっている人がいることは事実です。テレビで復興の様子をだけをみていると錯覚してしまうかもしれませんが、心のひだにまで寄り添える支援の仕方が必要に思います。
我が家はダンボールハウス化してしまい、ちょっと困ってきていますが、それで疲れて救援活動をやめるなんてことはしません。被災者個人とつながれるようになったので、うちにある物資で被災者の方が必要なものを箱に詰めて直接送ってあげられるようにもなってきました。もし、物資を必要としている方がいたらお知らせください。
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〇4月17日
今日(日曜)また高田に行くことになりました。
あまねと旦那はお留守番。
水沢の奥州いわてnpoネットのスタッフに一緒に行ってほしいと依頼され同行します。もちろん我が家からの物資も持って行きます。
きのうは過去最高、約20箱が届きました。ありがとうございます。
でも正直、送り出しても減らない箱の山の前でちょっとつかれも出てきました。
みなさんのところにもストップしてくださっている荷物があると聞き、心苦しいのですが、先日の日記に載せたもの以外はしばしお待ちいただくか、物資の中でできるものをチャリティバザーに代えてカンパで支援して頂くかすると助かります。お手数おかけして申し訳ありません。
でも、明日も希望を持って届けてきますよ!
待っててくれてる方たちがいっぱいいると信じて。
それから高田高校の校長先生から全国の皆様へ御礼のメッセージです。
http://www2.iwate-ed.jp/tak-h/thanks.html・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇スマイル救援物資・4月17日・18日
実はニュースにはほとんどなりませんが、最大余震だったあの日の地震の方が岩手県南の内陸は被害が多く、建物の全壊、崩壊、道路の地割れ、陥没隆起があちこちで見受けられます。ショックで声がでなくなった人もいると聞きました。私たちがいつも通っている道も寸断され、迂回して行ってます。2t車を借りた大東の祖母の家の蔵も壁が崩壊したり地割れしています。でも、そんなことがまだちっぽけに見えてしまうほど沿岸の変わり様は比較になりません。
今回の地震津波のように一瞬にして天地がひっくり返るようなことが起こらないとは考えなくなりました。いつだって生死は隣り合わせ。高田に行く度、帰ってくる度、何事もなく通過できたことを感謝し喜びとしています。
あと1回同じ規模の余震がきたら、もしかして高田に行くことができなくなるんじゃないかと思ってしまいます。そう考えると怖いです。孤立しているところはますます孤立すると思うのです。どうか沿岸と内陸を結ぶ命綱だけは切れませんように、、、と祈らずにいられません。
きのうご一緒した奥州いわてnpoネットの方々と運転してくださった有志の方も口をそろえて言いました。「テレビで見るのと実際見るのとでは違った」と。
矢作第6区公民館ではここのまとめ役をされてるおばちゃんが前にお会いしたときよりもいっぱいお話してくださいました。閉じ込めていた傷と心が開かれ始めたような気がしました。
「あの日の記録を写真に撮って残しておけばよかったよ。一日経ったら(様子が)変わってるんだもん。首まで水に浸かって逃げてきた人もいたよ。気づいたらここの公民館にいた。首がない、上半身しかない、3階にひっかかってる、そんなのいくらでも見たよ。それ見て私たちご飯食べてるんだから、人間じゃないよね、はっはっはっは」。
地獄です。生きたまま地獄を歩いてきたのですから。
かける言葉もありません、ただただ聞いているだけです。
でも、聞いてほしいそうです。風化させたくないとも言っています。
地獄を見ても、それでも生きること、生きていくことに希望を捨てないでがんばっているのです。戦争のときもきっとおんなじようだったんだろうなと想像します。生き残った人に与えられた役目の重さ、大きさを感じます。
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(17日・日)
矢作第6区公民館(大人の靴・老人男性用衣類・食糧・日用品)→矢作コミセン(大人の靴・野菜)→第一中と給食センター(聞き取り・仮設入居者用の日用品・台所用品)→徳山さん宅(徳山さん個人への救援物資・果物・食糧)→福田さん宅(食糧)→新田地区災害対策本部(食糧・衛生用品)
(18日・月)
第一中(介護用パッド)→給食センター(仮設入居者用の衛生用品・台所用品・食器)→米崎小(小・中学生用学用品・絵本・大人用おむつ)→米崎に移転した高田保育園(幼児用絵本)→矢作第6区公民館(布団について聞き取り)
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「仮設住居入居者への行政からの支援物資が打ち切り」と言われ、「え?なんでみんな被災しているのに!」という気持ちでした。それなら仮設入居者用の支援もしなきゃ、と思い台所用品など募集しましたが、当たり前ですが怒りの声が上がり物資の支援を続けることにしたそうです。
仮設住宅のある第一中の受付で仮設入居者用の物資の受付はどこか聞くと給食センターを案内されたので持っていくと、結局ここに集まったものは一般の支援物資と混ざって一旦市内や大東の体育館に保管されるとのこと。それを聞き、ちょっとがっかりしました。仮設住宅の場所が避難所として一番大きい第一中の校庭にあるためかあまりオープンにはなっておらず、容易に入っていける雰囲気ではありません。本当ならば一軒一軒あたって今必要なもの、足りないものをお渡しできたらと思っていましたが、残念ながら仮設住宅への直接の支援は難しいと感じました。
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〇スマイル救援物資・4月24日
今日は我が家と北上のYさんにお手伝いしてもらい2台で高田に行ってきました。いつものように、避難所ごとに要望のあった衣類やたくさんの野菜を買い込んで。
出発前に森ようメンバーのMさんが手作りのイチゴ大福を36個も作って届けてくれて、おばあちゃんたちの笑顔が浮かびました。それに今日はマイミクぺーちんさんが被災地のために注文してくれた大東のしたみちりんご園のりんごたち8箱(320個)を預かり、納豆、豆腐を各30個買って行きました。もっと、もっと、と思うけど大型店でも一箇所でこれだけ買い占めるとさすがに気が引けます。
大東の産直で母と待ち合わせ、母にもそれぞれ20個ずつ買って来て貰った納豆、豆腐と引き換えるようにあまねを預け、したみちりんご園へ。
余談になりますが、実はここのOさん宅にはうちの愛猫モモちゃんの愛娘ピンちゃんがいるのです!ミクシー日記を遡って読んで、3年4ヶ月ぶりのピンちゃんとの再会だったとわかりました。
離れ離れになったときは不本意であったため、悲しくて悔しくてまるで身体を引き裂かれるような思いでしたが、ぴんちゃんはOさん宅でかわいがられており、「こんな優秀な猫見たことない」と言われるほど評判の猫とか。
そりゃそうです!モモちゃんの娘ですもの!千貫石の森で5匹の兄弟とモモちゃんと最高の時間を共にした森猫たち。あ、なんて平和でいとおしい時間だったことだろう・・。あんなにいい時間はないな〜。よく子育てを(人間の)終わった世代の方々が口にする気持ちがよくわかります。
久々に会ったピンちゃんは今ではモモちゃんよりもふっくらして大人の女性になっていました。ひとしきり私に抱っこされたままお話を聞いているようで、でも(私が)忘れられたような気もして、それでもきっとモモちゃんの匂いがかすかに服に付いていたら思い出してくれたんじゃないかな〜と甘い期待をしつつしたみちりんご園を後にしたのでした。車の中は季節外れとはいえ、しっかり蔵の中の冷蔵庫で保存されていたりんごたちの甘い匂いが充満していました。
≪スマイル救援物資≫
★今日の動き
1、矢作第6公民館
2、第一中
3、徳山さん宅
4、福田さん宅
5、米崎小学校
6、米崎に移動した高田保育園
7、新田地区災害対策本部
8、慈恩寺
9、恩師M先生宅
★届けたもの
高田第一中学校、米崎小学校、高田保育園以外のところに納豆、豆腐、野菜りんごなどの食糧、必要な衣類、バッグ、本など
第一中には高齢者用の肌着、介護用オムツパッド、
米崎小は学用品、避難所用のジャージ、
高田保育園にはぬいぐるみ、絵本、らくがき帳
*特にしたみちりんご園の大東りんごと納豆、豆腐、ジャージが大変喜ばれました!
比較的大きな避難所でもある米崎小学校でジャージがほしいと言われました。私自身、今まで個々に確認もせず、すっかりジャージは多くのところで、しかも米崎小のような避難所では間に合っているだろうと思っていましたがほとんど入ってきていないとのこと。やはり場所によってムラがあります。
慈恩寺でもジャージがほしいと言われました。とりあえず、米崎小には持ってきていた女性用のジャージ1箱分があったのでそれをお渡ししました。
テントで覆われているわけでもない避難所ではジャージが一番ラクに過ごしやすいということです。私だって今もそうです。余震が続いていたり、特に夜中に避難しなきゃならなくなった場合のことを考えると昼も夜も同じ格好になるのです。何日も同じ服を着ています。下が硬く、狭苦しいところで寝ているのでなるべく締め付け感のないジャージで休みたいというのが本当のところのようです。
日曜だったので避難所も休養日にしているところが多くありました。避難所の休みってどういうことだろう、と思いましたが、食事を作っている女性たちが身体を休めるように、日曜だけは配給のカップラーメンやパンで各自一日やりくりしようと決めているそうで、こういう場合のカップラーメンや菓子パンは有効だなあと思います。でも、これに頼って毎日食べている人もいないとは言えません。せっかく生かされた命を病気と引き換えにしないよう、せめて健康を維持してあげたいです。
前の日から雨が強くて風が吹き荒れ、海から2キロくらい離れたところにある福田さん宅では「ゆうべは津波の音を思い出していたよ」とお母さんが言っていました。福田さんの庭からは荒れている海や焼け野原状態の街が見えます。3月11日以前はこんなには海が見えなかったはず。街があって、防波堤があって、海岸沿いに松原があったのですから、見えたとしても遠くに見えたのではなかったかと想像します。
今まさに満開の桜を見ても、なんだかさびしい気持ちです。桜を見てなのか、瓦礫と化した高田の街を見てなのかどちらかわかりませんが、涙が出てきます。「いつもの色と違うんだよね」と福田さんが言うとおり、私にも桜の色ががれきの色に染まって見えます。
日曜で久々にお天気ということもあって、福田さん宅に避難している方も家のあった場所に瓦礫を片付けに出かけたり、まだ見つかっていない家族を探しに出かけていました。身内としては指一本でも本人とわかるものがほしい、という切実な気持ちに時が経っても変わりはありません。
「私は学もないので書くこともできないけれど、みなさんに本当におかげさまです。ありがとうってお伝えください」とおっしゃっていました。
荷物が半分に減ったところでうちの車に荷物をまとめてYさんよは米崎小で解散。ここから広田半島へ向かうと時間がかかり、帰りが夜になるのがわかっていたのでここで帰っていただきました。
新田地区災害対策本部から慈恩寺に向かうとき、ラジオで「北国の春」が流れました。子供のころ父とお風呂に入ると必ず聞かされていた歌。高田出身の千昌夫さんの歌。この歌がこんなに胸にしみた日はなかったです。
歌のごとくこぶしも春のエネルギーいっぱいに力強く咲いていました。桜も梅も桃も椿もたんぽぽも春を知らせてくれています。季節ごとにもらっていた自然からの便りを励みにしていた人たちの心に、心の花を咲かせるだけの力は残っているだろうか。自然や街の復興と一緒に人の心も花を咲かせていくのだろうか。
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☆ロケッティーダより
5月の連休に入り、被災地も諸々混雑しているようです。
道路も思いのほか渋滞などがでているようで、スマイル救援物資も
なかなか思うように活動ができないようです。
連休あけにまた開始するとのことです。
引き続き、活動日記があがってきたらこちらに転載いたします。
今しばらくお待ちくださいませ。
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〇スマイル救援物資・ 5月17日<以下写真はすべて後ほどアップいたします>
ぶりの高田は瓦礫の山が少しずつまとめられはじめてきたな〜と見受けられました。しかし本当に空気が悪い。景色がかすんで見えるし、マスクをしていったのに帰る頃にはのどが痛くなっていました。喘息の人も増えてきているそうで、この瓦礫の撤去が終わるのが数年かかるのだとすれば、高田で暮らしていく人たちも深刻かもしれない。
以前矢作6区公民館に避難していたおばあちゃんたちが、下矢作コミセンに移動していました。昼食後の休憩中にお部屋をのぞくと、6区にいたおばあちゃんが気づいてくれて、「あーそうだ、そうだ」とみなさん起き上がってきてくださいました。久々の再会に自然に笑顔がこぼれます。
仮設が決まった人も、もう住み始めている人もいて、今ここにいるひとはだいたい70名。子供たちは小学生5人、中学、高校がひとりずつ。
豆腐、納豆、野菜、たけのことわらび、それに春夏ものの衣類、肌着、靴、リュックやポーチや買い物袋、婦人雑誌や読み物など、車に積んだ荷物の大半はここでもらっていただくことに。
前はくじ引きで服など割り当てたそうですが、今日は箱を開けると群がる群がる。奈良公園の鹿に囲まれたような気分でした(笑)実はみなさんに会うまで頭の中は放射能のことがあって、気も重いし足取りも重かった。でも、おばあちゃんたちの喜んでくださる笑顔に力をもらいました。
第一中では今月末にボランティアで東京からお年寄りと歌を歌いに来てくださる方のことで打ち合わせをし、その後いつもの福田さん、徳山さん宅、新田地区、広田の慈恩寺に行って前回頼まれていたものを中心にお渡しして終了。慈恩寺を出るときまだおひさまが高かった。以前は夕暮れをとっくにすぎていた。ずいぶん日も長くなりました。
出発が遅かったのでどうなるかと思っていたけど、早々と物資を届けられた
ので恩師の充先生を訪ねて高田高校の仮校舎である旧大船渡東高校に行ってきました。
びっくりしたのが、大船渡は高田の隣なので同じように被害が大きいと思っていましたが、街も主要道路も残っており、海沿いを除けばほぼ変わらない風景だったこと!
高田がひどい、と言われる理由がわかった気がしました。
先日たまたま原爆投下後の長崎の写真を見ましたが、今の高田はそっくりそのままです。
高田を回ったあとで大船渡の子供たちや高校生が歩いていたり、お店が営業しているのを見たら津波など何もなかったかのような錯覚を起こしてしまいそうでした。
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〇スマイル救援物資・5月30日
遅ればせながら5月30日に高田に行った際の報告です。
この日はいつもの物資届けメインの救援活動とは形が違いました。
東京で高齢者向けの歌の教室をされている久里きなこさんという方からボランティアで被災地支援をしたいという申し出を1ヶ月前から受けており、久里さんを私たちが回っている避難所にお連れし、みなさんと一緒に歌を歌いました。
子供たちのいる子育て支援センター、高齢者のお部屋など2日間で4ヶ所5部屋で、ひとときの歌の時間を持ちました。
「ふるさと」
「北国の春」
「上をむいて歩こう」
「空より高く」 などなど
歌い終わったあと、ある先生が涙しながら「気が張ってたから・・・」ってこぼしました。
歌って、揺れて、踊って、跳ねて、、、。
こどもも大人も、このひとときの流れに身を委ねて、
縮こまってしまった心がやわらかく解きほどかれていくようでした。
涙を流す暇もない、流してはいられない・・・
2ヶ月半経っても、未だにそうならざるを得ない状況のなか、過ごしているのだと思います。
私自身、久々に歌に浸れた一日・・・。
みなさんと歌いながら、溢れそうな涙をこらえている私もまた、
泣いてはいられない・・・と思いつつ、
いつになったら泣けるのだろう・・・と思うひとりであります。
歌を届けつつ、物資も少しですがお届けしました。
ナイスなタイミングで、前日にスペイン在住の型染め作家の友人yoko kataokaちゃんから、千羽鶴が届いたのです!
彼女が日本のために何かしたいと、自分の作品を栞にして販売、その売上の一部で千羽鶴の折り紙代と子供用のおもちゃ代に、残りを赤十字への義援金に送ってくれたのです。
メールで日本のためにスペインのカタロニアの人々に呼びかけて、あちこちで折ってくれていることは聞いていましたが、箱を開けたとたん、感無量で涙が溢れました・・。
私が高田への支援をしているということで高田のみなさんに、と送ってくれた千羽鶴・・・。
折鶴なんてしたことのないスペインの人たちが、心をこめて折ってくださったそのあたたかい気持ちが、ずっしり伝わってくるようでした。
歌い終わったあと、「もうひとつ届けたいものがあります」と言って、この千羽鶴を米崎小学校のなかの子育て支援センターと学童クラブのみなさんに託しました。
歌が終わって涙があふれているなか、ますます止まらなくなってしまいました・・・。
今度訪ねるときには飾って下さってるでしょう。
それにしても、美しい写真・・・。
いや、写真の中の人々の暮らしや笑顔が美しいんだなぁ・・・。
yokoちゃん+ルイス、本当に素敵な贈り物をありがとう!
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〇スマイル救援物資・6月5日
きのう陸前高田に布団、絵本、衣類、野菜を届けてきました。布団でちょっとヘトヘトです。。
報告はまたあとで。
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